聖徳太子と太子町
聖徳太子は『日本書紀』によると572年に生まれ、様々な功績を挙げました。603年には個人の才能や功績に応じて位階が与えられる「冠位十二階」の制を打ち立て、604年には道徳的な規範を示した世界最古の憲法と言われる「十七条の憲法」を制定しました。また、仏教の祖としてその普及に努め、法隆寺や四天王寺を建立しました。他にも中国大陸の技術・文化を取り入れるため遣隋使を派遣するなど、外交・内政ともその才覚を遺憾なく発揮しました。聖徳太子が逝去した時期については諸説ありますが、『上宮聖徳法王帝説』には622年2月22日に斑鳩宮で亡くなったとの記述が残っています。
では、歴史上もっともよく知られている人物の一人である聖徳太子と太子町の関わりはどこにあるのでしょうか。その答えは、太子町に聖徳太子のお墓がある、の一言に尽きます。
斑鳩宮で逝去した聖徳太子の遺体は王寺町を経由し、科長の御廟まで運ばれ埋葬されました。伝承では、聖徳太子が黒駒に乗って日本中を巡視し、富士山に登った時、河内に五色に輝く光が見え、その輝く所を自らの墓所と決め墓を造らせたと伝えられており、その場所が現在御廟の北にある「五字ケ峯」です。聖徳太子への崇敬は太子の葬られたお墓への信仰を生み、推古天皇によって御廟を守護するために叡福寺が建立されることとなりました。
聖徳太子の功績は皇族や貴族、さらには高僧たちによって讃えられそれはいつしか信仰へと変わっていきました。このようにして叡福寺は聖徳太子信仰の聖地として発展していくこととなります。叡福寺には空海や親鸞といった高僧も参籠したと伝わり、現在行われている大乗会式のもととなった、聖霊会式もその頃から始められました。また、江戸時代初期には大工さんの集まりの「太子講」なるものが叡福寺周辺にでき、自分たちで聖徳太子信仰をすることが始まりました。さらには、近世への時代の移り変わりの中で、大乗会式などの信仰行事は太子町の人々の生活に深く関わり、地域のコミュニティとしてなくてはならないものとなったのです。
このような歴史を背景に、昭和31年9月30日に当時の磯長村と山田村が合併し、聖徳太子にちなんで太子町と名付けられました。現在の太子町の姿はその名のとおり、聖徳太子と共に形作られてきたものです。聖徳太子没後1400年以降にも「和を以って貴しと為す」の精神は色褪せることなく引き継がれています。
●聖徳太子御廟
径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室です。聖徳太子と母君の穴穂部間人皇后、后の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられることから三骨一廟と呼ばれています。
●叡福寺
聖徳太子推古天皇が聖徳太子の御廟を守護するために建立したお寺。古くから聖徳太子信仰の聖地として発展し、空海などの高僧も参籠したと伝わっています。戦国時代には織田信長の兵火で焼失しましたが、江戸時代に豊臣秀頼によって聖霊殿が再建され、次第に整備が進みました。聖徳太子の命日にちなんで、毎年4月11日に大乗会式が行われ、「太子まいり」と呼ばれ親しまれています。
●叡福寺の七不思議
①御廟を取り巻く二重の結界石のうち、内側の結界石は何度数えても数が合わないこと。
②御廟に松が生えないこと。
③御廟に笹が生えないこと。
④御廟からは洪水の時でも水が流れ出ないこと。
⑤御廟から瑪瑙石記文が、その予言通り発見されたこと。
⑥聖徳太子が御廟前に挿した楠の轅が根付いて、芽を吹き生い茂ったこと。
⑦御廟窟内の聖徳太子の身体は、永い歳月を経た今もよい香りがし、皮膚も温かく生きているようであること。
●西方院
西方院は日本最初の尼寺で、聖徳太子の乳母であった月益姫、日益姫、玉照姫(それぞれ蘇我馬子・小野妹子・物部守屋の娘)の3人が剃髪して仏門に入り、太子の冥福を祈ったのが始まりと伝えられています。本尊は、聖徳太子作と伝わる阿弥陀如来と恵心僧都作と伝わる十一面観音菩薩像。